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徳川家と松尾芭蕉のつながり その1

大きな声では言えないのですがw、

実は、松尾芭蕉は徳川家と深い関わりがあった人物なのです。

 

徳川家代々の事情に詳しい人なら、藤堂高虎という武将についてはよくご存知のはず。

この人は、津藩(今の三重県)の初代藩主として知られていますが、織田信長・木下秀長(秀吉の異父弟)に仕え、さらには豊富秀吉にひきたてられて、伊予板嶋(現在の宇和島)の大名となったという、いわば出世街道まっしぐら的な経歴をもっていました。

 

細かいことはともかくとして、いろんな面で秀でた才能をもっていたらしく、聚楽第にの敷造営の際も非凡な普請術を発揮した。それに目を留めた徳川家康(当時45歳)は、14歳年下の藤堂高虎と個人的に親密な手紙のやりとりをするようになる。

そして、今に残るだけでも都合40通にのぼる、この手紙のやりとりが、やがて家康が大きな歴史的転換点を作り出すもととなるのです。

 

そのころの家康が、天下取りに向けて特に心がけていたのは、

情報を的確につかみ、的確に表現する

という能力に長けた人間の重要性でした。

けれど、いつの世にも、そういう人は滅多にいない。

その点、藤堂高虎は、その条件を十分以上に満たす 情報力の天才 だったのです。

 

さて、この津の藤堂家の親戚筋、藤堂新七郎家が侍大将として領していたのが伊賀上野

そう、松尾芭蕉の郷里ですね。

そして、(おそらくハイティーンのころの)芭蕉は、藤堂新七郎家の嫡男(後継者)で二歳年上の良忠に仕えることに。

この人は蝉吟という俳号をもつ俳人でもあり、芭蕉(当時の名は宗房、俳号は桃青)とは俳諧を通じて個人的にも親しく接するようになった。

ここから、本来は低い身分の土豪の次男坊であった松尾宗房が、やがては徳川家と(非公式ながら)直接的な関わりをもつようになる道が始まったのでした。